「関ヶ原合戦」前夜 ―その時小諸はー

慶長5年(1600)9月15日徳川家康率いる東軍の勝利により「天下分け目の戦い」といわれた合戦が終った。この合戦には仮説も多く、興味深いことが幾つかあります。NHK大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続が徳川家康に送った書状、世に言う「直江状」が発端となった。とも言われています。また、徳川秀忠率いる三万八千の軍勢(徳川本隊)が中山道を美濃に向うわけですが、わざわざ合戦に遅参させ徳川本隊を温存した。これは「家康と参謀本多正信との密約」であった。と作家山岡荘八は指摘する。      
その時小諸はどうだったか、中山道と北国街道の要である小諸は通過点とは言え、この大きな合戦に巻き込まれていたことは明白です。関係する文献から当時の様子を見てみようと思います。城主は仙石越前守秀久で着々と小諸城が整備・拡張を進めていた時です。
仙石氏は豊臣の家臣でありましたが、徳川家康に忠誠を誓い、家康から信濃東部の要の小諸城を治め、又、真田の動向を監視するよう命じられていました。(改選仙石家譜巻三)
豊臣五大老である徳川家康と上杉景勝は意見対立し、徳川一門と意を同じくする諸大名と共に上杉征伐と称し出陣、栃木県小山に終結。滞在中に関西において石田三成の不穏な動静が伝えられる。徳川家康は諸将に帰国を命じ、自分も江戸に戻る。(小山軍議)
徳川秀忠は兄の秀康と共に宇都宮に滞在し、榊原康政・本多正信以下の諸将を統括して上杉景勝に備えた。8月12日家康より「信濃を治め、木曽路へ向え・・・」との命が下り、秀忠軍は8月24日宇都宮を出発。この時の状況を伝える8月23日付徳川秀忠直筆の書状(小諸徴古館所蔵)によると「・・・信州真田表仕置の為、明二十四日令出馬候・・・・・」と真田を攻めることが明記されている。
そして、9月1日軽井沢に到着。その時の様子を「改選仙石家譜」は次のように記述している。「・・・台徳院殿九月朔日信州軽井沢に着せらる。同二日秀久その告を聞くとひとしく一騎駆けにて追分駅に至りて迎え奉る。・・・御馬の近づき給うを見て秀久下馬せんとするをご覧ありて、軍陣にては上下とも馬上の礼なりそのままこれへと上意にて招き給う。・・・その内に従兵等追々に馳せ付ければ則供奉して小諸城に入らせらる。・・・かくて城郭を酒井左衛門尉に引渡し、大手門外に下馬標を建つ。・・」
(紙面の都合で所々省略) また、秀久は本丸を避けて外郭に移居す。と徳川秀忠の本陣を小諸城内(二の丸)に置いたことを記述している。


テキスト ボックス: 憩石記    小諸城址有一石。傍種柳樹。  老幹骨立、飽経風霜。蓋数百年外  之所植也。相伝、慶長中徳川秀忠。  将会戦千関原、取路山道。仙石秀久、饗之小室城。公就柳陰踞石憩焉。爾来士人、慕公之徳、戒斬伐如召公之事云。今也国勢一変。  城池頽廃。所存独石與樹耳。然而士人追慕之誠愈切。則不可不記以伝也。    明治乙酉春 高橋 貞 識          佐藤知敬 書     小諸碑文集(小諸図書館蔵)より
小諸城址懐古園入口の三の門左側花見櫓跡に
徳川秀忠公憩石があり、碑文は次の通(左写真)
右写真は秀忠の本陣があった二の丸

 真田軍との攻防の様子は前述の「改選仙石家譜」及び池波正太郎著「真田太平記」に詳しいですが、奇しくも後に小諸城主となる牧野氏の祖先が徳川譜代として秀忠軍に属し参戦しています。真田太平記の他に「長岡藩牧野家家史」には次のように記述されています。
「慶長5年、関ヶ原の戦役起る、8月24日徳川秀忠は総勢三万八千人を以て、宇都宮より進出して中山道に向う。忠成(初代長岡城主)は父康成が六百の兵を率いて参加するに従い信州に抵る。9月6日秀忠は敵将真田昌幸が上田城を包囲し、四方に火を放って攻撃す。城兵能く拒み防ぎ、要害また堅固にして容易に抜けず。徳川軍暫く退却遠巻の陣営をなす。時に秀忠の幕下の朝倉宣正、齋藤信吉、小野次郎右衛門尉 、辻太郎助、戸田半平、鎮目市左衛郎尉、中山勘解由左衛門等7人は、上田城外に禾を刈れり。偶々真田昌幸が15、6人の兵を従へ、外郭を巡視するを見たれば、急に箭を放ち、槍を揮ふて攻撃す。城兵之を見て、砲弾を飛ばすこと急雨の如く、我が軍甚だ危険なり。忠成は父康成と共に之を援けんと欲し、旗を揮ひ、衆に先立ち、左に衝き、右に當り、奮闘力戦、其の驍勇相敵すべからず、城兵も辟易して退く。忠成、猶も進んで攻めんとせしが、本多正信、堅く制して退かしむ。9日、秀忠は攻囲の部署を徹して、総軍を小諸に回し、康成及び朝倉其他の諸士を軍令違背者として罰し、上州吾妻に錮す。」(その後赦されて領地上州大胡に戻る)
当市荒町にある海応院には徳川秀忠公小諸に滞陣中に当院住職康厳禅師の尽力により、真田との和睦がなったとして、その労をねぎらって与えた、「葵文散団扇」「高麗茶碗」「下馬札」が所蔵されています。(海応院由緒)
小諸に現存する貴重な文献、遺物などより当時の様子が浮かび上がってきます。 
秀忠軍が真田攻めを諦め、小諸から諏訪を通り木曾路を抜けて父家康の待つ関ヶ原へ向いますが、途中豪雨に阻まれ関ヶ原に到着したときは既に戦いは東軍の勝利で終っていました。






徳川秀忠公の書状(懐古園徴古館に展示)
天下分け目の関ヶ原の戦いに向う東軍の先方・福島正則宛に送った書状。宇都宮から出陣して真田を攻めることが記されている。秀忠が率いる軍は本多正信、榊原康政、大久保忠隣などをはじめとする徳川軍の主力部隊であった。小諸城に入った秀忠はここから初陣を飾る。当時の秀忠の宿舎となったのが小諸市内にある寺院・海応院。