小諸人物伝 小諸にゆかりある歴史上の人物


 





 

徳川秀忠
1579年に徳川家康の三男として生まれる。1600年の天下分け目の関ヶ原の合戦では小諸城に入り、真田昌幸・幸村親子を討つため小諸城より初陣を飾った。しかし老獪な真田昌幸の策略にのり、関ヶ原に遅参する失態をした。しかしその律儀な性格は家康から信頼され、二代将軍となる。およそ父に刃向かうような人物ではなかった。戦争は苦手であったが政治については抜群の能力を持ち、家康の路線を忠実に受け継いだ。そして期待通り、徳川秀忠は父家康が死去すると、幕藩体制を揺るぎないものにし、江戸幕府長期政権の基礎を作りあげることになる。酒井忠世、土井利勝、安藤重信といった重臣に支えられ、自分に従わない弟の松平忠輝、譜代で家康子飼いの本多正純や外様有力大名の福島正則などを改易。外様二三家に親藩や譜代十六家も改易し、統率力ある幕府を構築する。妻で織田信長の姪のお督に頭が上がらなかったのは有名な話
関が原合戦の前夜・その時小諸は









武田信繁
1525年、武田信虎の子として生まれる。幼名は次郎。天文十年に信虎の嫡男晴信が信虎を駿河国の今川氏のもとに追放している。『甲陽軍鑑』によれば、信繁は幼少期から信虎に寵愛され、信虎は嫡男である晴信(後の信玄)を廃して、信繁に督を譲ろうとしていたという。晴信期に武田氏は信濃侵攻を本格化させ、村上義清をはじめとする信濃国衆や越後国の上杉謙信との甲越対決が発生するが、信繁はこの時期、晴信の補佐役として信濃経略に従事している。天文20年には村上攻めのため先衆として出陣している。永禄4年9月10日、第四次川中島の戦いで討死する。決戦となった八幡原において上杉軍の猛攻を食い止め、命をかけ武田軍の危機を救った。信繁は兄の武田信玄の片腕としてよく軍をまとめる参謀役であったという。小諸城は信繁の居城であり、この地にその墓がある。また息子の武田信豊も小諸城の城代であった。










山本勘助
生まれは三河牛窪で生年は明応9年説、文亀元年年説がある。出家後道鬼斎を称している。武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられ武田信玄の伝説的軍師となっていたが、確実な文書の存在が確認されていなかったため、実在が疑問視されていた。近年は「山本菅助」の存在が複数の文書上から確認されている。小諸城は天文23年、武田軍の侵攻で武田氏の手中に落ち、以後約三十年間、武田氏の城代によって支配された。信玄は小諸の地を重視して山本勘助と馬場信房に命じて新たな縄張りを命じる。そして城郭を整備し総合的な大城とした小諸城の原型を構築した。勘助縄張りの小諸城は全国でも珍しい街の下に城がある穴城として有名である。第四次川中島の合戦で勘助が提唱した「啄木鳥戦法」が採用されたが、上杉謙信に見破られ戦況不利の状況を招き、その責任から討死したように「風林火山・井上靖著」などで描かれている。風林火山と小諸城












仙石秀久
1552年美濃国に生まれる。秀吉の旗下にあって軍功が認められ、信長より「永楽銭紋」の使用を許されるなど、讃岐高松城主十万石の大名にまで栄進するが、天正十四年九州島津征伐での軍令違反による惨敗で秀吉の勘気にふれ、領地没収の上、追放されてしまう。しかし、四年後の天正18年、小田原の役に【無】の馬印を掲げて馳せ参じ家康軍に加わり抜群の戦功をたて、再び秀吉に認められ、五万石の小諸城主として返り咲いた。仙石家初代・仙石秀久は在城二四年の間に小諸城の大改修を行い、二之丸、黒門、大手門を建てる。また現在の小諸の基となる城下町も秀久が造ったといわれている。三之門、足柄門は秀久の子忠政によって建てられた。本町の信号から北へ向かう坂(北国街道)が、当時小諸城から健速神社へ向かう道であった。仙石秀久が参拝のために日頃通ったその坂は今でも秀久の名から「権兵衛坂」と呼ばれている。













芦田(依田)信蕃
天文17年(1548)に信濃国で生まれた。依田氏は信濃国佐久郡依田城を根拠としていたが、甲斐の武田氏に従属していた。武田信玄・勝頼と二代に渡り仕える。依田信蕃は勇猛な武将として知られている。長篠の戦いでの二俣城の攻防、後に城主となった田口城での攻防でも徳川軍は大いに苦しめられた。家康は敵ながら主君を守り勇んで闘う信蕃に惚れ込んで家臣とした。信長が本能寺に倒れ無風状態となった信濃計略に徳川方の先鋒として旧武田勢の調略などで活躍。また徳川配下のもと芦田城を拠点に佐久地方を平定する。北条軍を相手に抜群の軍功をたて家康から絶大な信頼を得る。1583年、岩尾城攻めの際に戦死する。享年36歳。戦国時の武田配下の武将として天下統一がなりつつある徳川配下の武将としてこの地で活躍した勇将である。残された信蕃の2人の遺児は家康に優遇され、松平姓と偏諱を与えられ松平康国となり小諸城主となった。
















牧野 康済(やすまさ)
小諸城主牧野家第10代(最後)の藩主。1841年、第9代藩主・牧野康哉の長男として生まれる。1859年に従五位下・周防守に叙位・任官。1863年に内膳正に遷任。そして同年に父が死去したため、家督を継いで第10代藩主となった。1864年に遠江守に遷任する。弟の信之助が有能・活発であったため廃嫡運動がおき小諸騒動の発端となる。幕末の動乱期の藩主として激動の時代を生きた。戊辰戦争では新政府に帰順するが、その後の北越出兵は拒否し、碓氷峠の守備を務めるにとどまった。これは小諸藩の本藩である越後長岡藩の牧野氏と戦うことを嫌ったためという。1869年、小諸騒動により、謹慎処分を受けたが、版籍奉還で小諸藩知事となる。1871年の廃藩置県で藩知事を免官され後、康民と改名する。1918年に死去。小諸藩主牧野家は10代166年余にわたりこの地を治め、その間徳川家譜代大名として幕府の若年寄に9代藩主康哉が就き、当時の大老・井伊直弼の懐刀として手腕を発揮するなど、幕府の要職に就く藩主が多かった。
小諸歴史散歩(牧野民芸店HPより)














島崎藤村
詩人、小説家。本名は島崎春樹。明治5年に木曽郡山口村字馬籠に生まれる。明治14年、九歳で上京。明治学院普通学科卒業。同25年に雑誌「文学界」の創刊に参加。明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら浪漫派詩人として活躍する。明治30年に春陽堂から刊行された第一詩集『若菜集』は、日本近代詩の原点として後世の詩人に多大な影響を与えた。そして明治39年に発表した『破戒』によって小説家としての地位も確立し、大作『夜明け前』を生むことになる。同32年に結婚し小諸義塾の国語と英語の教師として赴任し、小諸の地で八年間を過ごす。この間に多くの名作を世に出している。千曲川旅情の「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ」の詩はあまりにも有名。小諸懐古園内には、その功績を偲ぶ島崎藤村記念館が建つ。昭和18年「涼しい風だね」という言葉を残し大磯の自宅で永眠。馬籠の菩提寺永昌寺に分骨が埋葬されている。

















高浜虚子
本名は高浜清、明治7年に愛媛県松山市に生まれる。明治26年、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。明治27年に上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込む。明治30年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』に参加。翌年、虚子がこれを引き継ぎ、東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発した。夏目漱石なども寄稿している。子規の没した明治35年、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭している。小諸に昭和19年に疎開している。当地の小山栄一氏の援助のもと、小諸の風土に接した躍動的な詩を数多く残している。それは虚子の創作の歴史において「小諸時代」という世界を現出するものとなった。虚子が小諸で暮らしていた住居は大切に保存され、高浜虚子記念館として貴重な作品や資料が展示されている。
















伊東深水
明治31年に東京深川に生まれる。本名は一(はじめ)。大正から昭和期の日本画家。鏑木清方に師事。若くしてその才能を開花させた天才画家。日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名で美人画の大家といわれた。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し評価を高めた。戦後は美人画とも並行し個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。また長唄や小唄など玄人級に上手く花柳界や芸能界との交流など幅広い友好関係を持っていた。次男は日本画家で日展評議員を務めた伊東万燿。娘は女優の朝丘雪路さん。昭和20年より小諸に疎開し四年間この地で過ごす。この間、数多くのスケッチ画を残す他、日本芸術院賞に輝く「鏡」などの代表作を発表している。小諸出身の日本芸術院会員の日本画家・白鳥映雪の師匠。疎開中には李王殿下夫妻が訪れるなど、その賑やかさは今でも地元の語り草となっている。昭和47年永眠。















小山敬三
明治30年に小諸城下荒町の豪商の家、小山久左衛門の三男として生まれる。上田中学まで当地に育ち、慶応大学予科に入学のため、故郷小諸を離れる。その後、芸術家への道を志し、父君と親交のあった島崎藤村のすすめもあってフランスで八年間、油絵を研鑽する。昭和4年に茅ヶ崎市にアトリエを構えた。帰国後は有馬生馬や山下新太郎らと一水会を結成した。日展等で作品を発表し、昭和35年日本芸術員会員、昭和45年文化功労者となる。そして同46年小諸市名誉市民に、また同51年には茅ヶ崎市の名誉市民に選ばれた。同50年に文化勲章を受章した。同年に小諸市に小山画伯から建物と絵画が寄贈されて作られたのがいまの小諸市立小山敬三美術館である。同45年には私財を寄贈し小山敬三美術振興財団を設立し、中堅の洋画家を対象として留学奨励を行った。フランス人と国際結婚したことでも有名。昭和62年に神奈川県にて逝去する。













白鳥映雪
本名は九寿男。明治45年、小諸市滝原に生まれる。すぐに母を亡くし、その面影を慕い師匠となる伊東深水の美人画に魅せられ絵画の世界に生きることを決意。昭和7年に丸山晩霞の紹介で深水門下となる。昭和18年に「生家」が文展に入選、昭和25年に「立秋」で日展特選・白寿賞を受賞。伊東深水は数多い門下生の中より白鳥映雪を後継者に任命。その後、昭和32年「ボンゴ」で二回目の日展特選と白寿賞を受賞。同61年「寂照」で日展内閣総理大臣賞、平成5年「菊慈童」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞する。平成9年に日本芸術院会員、平成10年に日展顧問に就任。作品は首相官邸、衆議院議長公邸に展示されるなど日本を代表する画家として高い評価を受けている。晩年、脳硬塞に倒れながら左手で絵を描き続けた姿がテレビで全国放映され、多くの障害者に希望と勇気を与えた。市立小諸高原美術館白鳥映雪館に代表作が常設展示されている。
白鳥映雪公式サイト













臼田亜浪
明治12年に長野県小諸市に生まれた。本名卯一郎。初号は一免、他にも石楠花、石楠書屋主人、北山南水楼主人など。法律学校(現法政大学)卒業後、新聞記者(横浜貿易新聞)記者、「やまと新聞」編集長など」として活躍。俳諧は小学生頃から始め、のち虚子に学んだ。大正2年「やまと俳壇」を興し、昭和4年には、大須賀乙字、風見明成らの援助を得て『石楠(しゃくなげ)』を創刊、主宰し終生その経営にあたった。主な句集に『亜浪句鈔』大正14年出版、『旅人』昭和12年出版、『定本亜浪句集』昭和24年出版、などがある。また評論集『惣明』『道としての俳句』『西郷南州言行録』など評価が高い。昭和26年没。享年73歳。東京中野の宝泉寺に葬られる。明治から昭和かけて既成の季題観念にとらわれず、生活に根ざした人間的感情を自然観照と一体化させる句を作った。















渥美清
昭和3年、東京に生まれる。本名田所康雄。巣鴨中学(旧制)卒業後、数々の大衆演劇劇団を経て昭和28年、浅草のフランス座に入る。浅草軽演劇の黄金時代にコメディアンの才を磨いた。同34年にテレビに進出。お茶の間の人気者となる。松竹映画『拝啓天皇陛下様』が映画俳優の出世作。『男はつらいよ』の主演、国民的人気俳優となる。映画『男はつらいよ』は全48作という長寿人気シリーズとなりギネスブックにも登録された。その中で「寅次郎サラダ記念日」は小諸が舞台となっている。全国を渡り歩く主人公「フーテンの寅=車寅次郎」は、自身が少年時代に見かけたテキ屋の思い出をもとに山田洋次監督が作り出したキャラクターで渥美清の代名詞ともなった。死後、国民栄誉賞が贈られた。小諸にその記念品の数々が展示されている。生前こもろ寅さん会館オープニングセレモニーに来たほか、プライベートでも度々小諸の地を訪れている。
















中山晋平
明治20年に下高井郡新野村(現中野市)で生まれる。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した作曲家。作品は現在も抒情歌または日本歌曲として歌い継がれている。日本語の詩に最もマッチした曲をつける作曲家といわれた。一例で「證城寺の狸囃子」を作曲する際、冒頭の「證城寺、證城寺」を無断で「しょ、しょ、證城寺」に改変し、作詞者の野口雨情から抗議を受けたが「しょ、しょ」のおかげでかえってヒット曲になったという話が残っている。長調の曲はほとんどがヨナ抜き音階で書かれている。また、童謡には「兎のダンス」や「蛙(かはづ)の夜回り」のようなピョンコ節がかなりある。生誕百二十年を記念して出身地である長野県内の有志が中心となり晋平の数奇な人生を忠実に再現した映画「ララ、歌は流れる中山晋平物語」が作られた。小諸の大和屋呉服店で働いていたことから小諸との縁も深い。















若山牧水
明治18年に宮崎県に生まれる。中学校より短歌と俳句を始める。18歳のとき、号を牧水とする。早稲田大学文学科に入学。北原射水、中林蘇水と親交を厚くし、早稲田の三水と呼ばれる。明治44年に創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰する。旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に歌碑がある。大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいたという。同43年に小諸を訪れる。田村病院の二階で歌集「路上」の作品を書き、土屋残星や宮坂古梁、山浦為一、山崎文蔵など小諸の歌人と交流をもつ。失恋の悲しみと病を癒すのが小諸に来た目的であった。懐古園二の丸の石垣に「かたわらに秋くさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな」と旅情豊かな歌が刻まれている。酒の名歌「白玉の」もまた小諸で作った。大正15年詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。昭和2年死去。享年43歳。小諸の若き文人に多大な影響を与えた歌人である。












木村熊二
弘化2年に兵庫県に生まれる。明治26年、小山太郎等の熱意ある要請にこたえて木村熊二は私塾・小諸義塾を創立した。熊二は、明治初年アメリカに渡り12年の留学によって近代の西欧文化を身につけた新進気鋭の教育者であり、キリスト教の牧師であった。生徒は当時高等小学校を卒業し、なお向学の志に燃える近郷の青年で遠隔の者には寄宿舎を与え寝食を共にした。教え子である島崎藤村もここで教鞭をとった。その後私立中学校認可を得て充実した中学校教育へと発展。その背景には、町当局や有志、また都会からの積極的な支援がある。しかし日清日露の戦を契機にして、個性的で自由を特色とする教育は国家的な教育制度に阻まれて遂に明治39年小諸義塾は13年間の短い歴史を閉じた。木村熊二は教育やキリスト教伝道の他に開発にも尽力。小諸で洋桃や苺の栽培を指導し、明治末から大正にかけての地区の一大産業に発展させる糸口をつくる。

















柏木小右衛門義利
慶長13年(1608)~貞享3年(1686)柏木小右衛門義利は、御影用水の開発を時の小諸城主青山因幡守宗俊に申し出、新田開発を許可され浅間山麓奥の千ヶ滝を源とする上堰延長28km、さらに白糸の滝を源とし湯川より分水する下堰延長35kmの開発に従事。難所では金堀をもって岩石などを掘割、多数の人夫と多額の資金を投入して御影新田830石を開発した。 今日では想像も出来ない程の苦労を重ね完成した。用水の水量は豊富で、近隣の村々へも分水するほどで現在も利用されている。この開発の功績により領主より苗字・帯刀を許された。以後柏木小右衛門家は用水管理の絶対的権利をもち、その権利は代々子孫に引き継がれた。 柏木家は武田家家臣で、柏木城を与えられこの地を統治していた。しかし武田家滅亡により武士をすて、新田開発人として代々この地を守り現当主易之氏は十一代に当る。柏木家の屋敷は江戸時代御影陣屋として、幕府役人の宿所や役所にあてられた。そのため柏木家には当時の貴重な資料や武田家につながる貴重な資料が保存されている。尚、市内四ツ谷に功績を称えた石碑がある。御影には「小諸市立天領の里・御影用水資料館」がある。

















鈴木善之助(善人)
後に、「生国信州小諸」と言われる鈴木善人翁は、十四世本因坊秀和門下、囲碁五段、東京牛込の人である。尾州徳川家囲碁指南役であった翁は文久3年(1863)妻子を伴い来信、後に小諸に居を定め「囲碁以外その心を動かすに足らざる」と清貧に安んじさらに棋道に励み、多くの門生も育成、その名は天下に聞こえた。 翁の門生、有志者は明治27年(1894)小諸町の名士でもあった翁の66歳を記念し、 鈴木翁之壽碑を光岳寺に建立した。しかし翁は明治32年(1899)1月30日、71歳 の生涯を閉じ同寺に手厚く葬られた。明治39年(1906)信濃毎日新聞は鈴木翁を囲碁 の師として直接交誼があった木村熊二小諸義塾塾長の証言を得て、翁を信州の奇傑伝の一人に選んだ。鈴木翁とその門生達によって展開された囲碁の舞台は、北は長野市から上田、小諸を中心に、南は佐久市、佐久穂町、小海町まで及んでいた。 参考図書「小諸繁盛記」明治38年発行





               
石塚重平
自由民権運動家


小林葛古
江戸時代の俳人


小山邦太郎
小諸初代市長


小山松寿
中日新聞創始者


高橋平四郎
製糸業の先駆者


柳田茂十郎
小諸商人先駆者


朝倉重吉
部落開放先駆者


日向吉次郎
喜多流能楽宗家